天天好時光

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コトバ

刑事が自転車に乗って逃げる泥棒を捕まえた。

この文章は多義である。
刑事が自転車に乗っていたのかそれとも泥棒が自転車に乗っていたのか、
この文章からは判断ができない。
しかし、普段は文脈/場面が存在するので意味を捉え違うということはないらしい。
すぐに例は思いつかないが中国語にも多義的と思わせるような文章に出くわすことがある。

五四時期の日本留学経験を持つ作家の文章は~的を多用して前から修飾する文章が多いということを示した論文をかつて授業で読んだことがある。
実際読んでみると日本人にとっては比較的容易に読み取ることのできる文章があるがその多くはやはり前から修飾している文章であったりする。

逆に難しいなと思う文章は典故や抽象的な表現を多用しているものだ。
慣用句や成語をたくみに用いているのも難しい。

ただ、日本の新聞のようなとってつけたような言い回しではなくその文脈にしっくりと当てはまるような印象を持つのである。

やはり文学作品を読みこむということは、語学学習の王道でもあり基礎でもあることを認識させられる。

古巨基「忘了时间的钟
他的名字怎么几乎是潮呼呼的?
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by pangxie | 2004-08-30 20:28

男女共同参画

27日(金)は大学で行われた男女共同参画に関するシンポジウムを聞きに行く。
家に帰ってレジュメを読み直してみる。
国の推進する男女共同参画に関しては、最後のまとめの部分を見る限りどうもうさんくさいものを感じてしまう。
それは、つとに指摘されていることだが「少子化」対策として位置づけられていることにある。
少子化対策ということはつまり子をもっと産みやすい社会にせよということである。
産みたがらない社会ではなく、産みたがるような社会、産みやすい社会へとシフトさせる。
確かに仕事に生きがいを感じ始め、子を産むことによって女はそれを断念させられる場合が多い。その対策としては有効かもしれないが、一方で子を産まないことに対する珍奇のまなざしは温存されたままである。
男女共同参画の前提が「家族」という共同体にあることは明らかだ。
単身/単親として生きることと男女共同参画はどのような関係を持っているのだろうか、今回のシンポジウムでは取り上げられなかったように思われる。

何よりも男女共同参画というのは、男女平等の視点に立っているのだから、
まずできることは大学以前の高校、中学、小学校における男女不平等をなくすことだと思う(たとえば制服制度)。
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by pangxie | 2004-08-29 00:55

どうやって生きるか

人はどれだけ生きたかではなく、どうやって生きたかが重要だ。
こんなことを聞いたことがある。
確かにそのとおりである。
無駄に長生きとまでは言わないが単に年齢だけを見てどうのこうのとは言えない。

だが、日本では年功序列などという腐りきった慣例がいまだ跋扈しているのも事実。
やはりみな年齢を気にするのである。

恋愛にしても相手の年齢を気にする人が多い。
たとえば、年上女房という言い方はあっても年上旦那などという言葉はない。
女房が年上であるという現象に有徴性が付与されているのだ。

ある現象を「例外」とみなすことはどこかでその例外なるものを排除しようとする思考が働いている。
自分とは違う生き方を珍奇な対象とする。そしてそれを笑ったり嘲ったりしあるいは悲しんだり哀れんだりする。ときにはうらやんだり嫉妬したりもする。

人は対象=他者の存在によってしか、自己の生存に満足することができないのだろうか。
空虚な生き方である。

元気になる歌:祖海「好运来
*メディア・プレーヤーがあれば見られると思います。
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by pangxie | 2004-08-27 02:29

バイトと息抜き

火、水、木と三日連続バイト。
土日は入りたくなくなったのでシフトを変えてもらった。
23時までというのがかったるいが稼ぐためにはしょうがない。

最近は中国音楽系列のサイトを見てはいろんな音楽を聴いている。
そのなかに、自分の保存しておきたい曲だけを再現できるものがあった。

陈思思「梦入桃花源
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by pangxie | 2004-08-26 04:59

後悔と焦燥感

名古屋中心街へ車で行くのはかなり大変なことだということを、今頃になって認識する。
やはりこれからは電車で行くことにしよう。

鶴舞の古本屋で無事お目当ての書物を入手することができた。
修論に大いに役立つことと思いつつ、それまでに消化できるのだろうかという一抹の
不安も抱かずにはおられない。

朝外へ出てみれば真夏のそれとは大いに異なっており、
空気、におい、そうしたものが自身の感覚に季節が「秋」だと認識させる。
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by pangxie | 2004-08-24 01:02

くだらない歌詞から〈恋〉を考える

地元の駅には有線が流れていてわりとJ-POPが多い。
今日も駅に入ると、恋をするとなぜ苦しくなるのだろう云々の歌詞が聞こえてきた。
それに答える形の歌詞がまた聞こえてきたのだが詳細は失念したが、非常にくだらないという印象を持ったことは明確に覚えている。

恋をすることが苦しいのは、他者を占有することが決して容易でないからにほかならない。
他者に自己を気にかけてほしい、つまり他者の心に自己を一定の割合で占有せしめようとする感情が〈恋〉なのである。
片想いではそれが成就されていないがゆえに苦しむ。
また両想いであっても、他者をつねに占有することは不可能であるから、時には疑心暗鬼を生ずることがある。そんなときに苦しむのである。

恋を希求する者はその容易ならざるを体得しているからこそ、羨望するのではないだろうか。
一方恋が成就して幸福の至りに浸っている者が、そうではない人に優越感を抱くのも同様の作用が働いているのではあるまいか。いわゆる勝ち組なんだと。
そしてひとりで生きることがさも寂しく、侘しいものであろう言説が振りまかれてしまう。

恋に優劣があるわけではないが、恋をするか否かにも優劣があるわけではないことを
ここで明確に主張しておきたい。
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by pangxie | 2004-08-23 00:55

笑えない“お笑い”番組

お笑い芸人がものすごい人気だといい、
昨日お笑い番組を見ていたが、全然面白くない。
笑えない。

漫才だろうと、ピンだろうと、どれもこれも面白くないのであって
これが本当に「お笑い番組」なのだろうかと疑いたくもなるが、
笑いのツボが自分とは違っていては別に彼らを非難する理由はないというのも
充分に自覚的ではあるが、こうも自分のツボと合わない笑いばかりだとどうも
文句を言いたくなってしまう。

吉本新喜劇も笑えない。
言葉のあげあしとりは面白いのだが、
では笑えるかというと、そうではない。
ところが、テレビを見ればいずれも観客達がおおいに笑っていて
不可思議である。
なにより、彼らのしゃべっている言葉が聞き取れない。
滑舌が悪すぎる。
これは芸人に限らず、アナウンサーや俳優にしてもそうである。
もっともとちるのは仕方がないのだが、それでも限度はある。
とちってばかりのピアノの演奏を誰が好き好んで聞きに行くのだろうか。
それと同じことである。

しゃべることを生業とするからには、プロ意識を持って練習くらいしておいてほしいものだ。
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by pangxie | 2004-08-22 00:20

バイトの愚痴

バイト仲間といろいろ愚痴を言いながら帰宅。
すぐに代わりはいくらでもいるようなことを言ってくるもんだから、
本当に腹の立つ思いがする。
シフトを一ヶ月前に出さなければだめだと言っておきながら
自分は前日にケータイかけてくるくせに。
人と遊んでいたり、勉強していたりするときのバイト先からのケータイは
本当にうっとうしい。
一気に興ざめしてしまうから。
なんだかんだといっても、みんなバイトにしては一生懸命やっている
(やらされている)と思う。
今の時給に比べれば働きすぎるくらい。
あと、自分がいかに苦労しているかを妙にアピールしてくるのも
どうにかしてほしい。
そんなこと一方的に言われても、「それで」としかいいようがない。
自分の苦労しているぶん、人にもそれを押し付けようとしているのだろうか。

文句ばかり書いてしまったが偽りのない感情でもある。
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by pangxie | 2004-08-20 01:58

パソコン購入

ようやく新しいパソコンを買った。
予算をだいぶ超えてしまったがあれこれ見ているうちに要求が高くなって、最終的に一番欲しいものを買ってしまった。
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by pangxie | 2004-08-18 23:39

偶然

映画『あの子を探して』(一個都不能少)を観る。
出演者は皆俳優を業としていない、ロケ地の住人たち(一般に言う「素人」という呼び方は大嫌い)。

主人公のミンジは50元のため村の教師のアルバイトをする。
はじめはいい加減だったのが生徒を一人も減らさなければ10元加算するという先生の言葉を信じて、出稼ぎに行ってしまった生徒のホイクーを探しに街へ繰り出してしまう。

街では捨てる神あれば拾う神ありの偶然が重なり、テレビ出演まで果たすのである。
テレビの効用は絶大でホイクーを探し当てることができたばかりか、村への多額な寄付も行われたのであった。

メディアという巨大権力を突き動かしたのは、ミンジのひたむきさである。
メディアによるミンジの発見は偶然にほかならず、さもなければミンジは途中で挫折してしまい、街をさまようだけの生き方を背負うことになるかもしれないのだ。

教育を受ける権利の行使もままならない農村の状況を照らし出し、偶然性によってその打開がはかられるというこの映画は、強烈な国家批判へとつながっているというのは深読みに過ぎるだろうか。また大都市の貴族学校と揶揄される豪華設備を持つ学校と対比すれば、いよいよもって農村部への教育の普及が急務であることを認識させられる。
この都市と農村の溝を埋めるために、「希望工程」という一大プロジェクトがある。これは寄付行為によって農村部に学校を作り、教育の普及をはかるものである。しかし、これは善良なる人民の救いの手をただ待っているという、本来国家が遂行すべき義務の放棄行為なのではあるまいか。

もちろん、希望工程事業そのものを批判しているのではなく、それに甘えている国家の態度がよくないと言いたいのである。寄付行為にのみ頼っている場合ではない。

国家が教育と福祉に手を抜いてはならない。日本も然りである。
素人ながらの考え。
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by pangxie | 2004-08-16 08:04