天天好時光

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集中講義(1)

22日(金)から25日(土)まで集中講義。魯迅『吶喊』について。

翻訳をするときの問題点を論じられた。
とくに中国語は副詞をどう解釈するか、
方言的語彙を見逃さぬようにすることなどがポイントであることを学ぶ。
すらすら読めるようで読めていないことが往々にしてあるのだ。
工具書をしっかりと使いこなさないと、翻訳はできない。

「『吶喊』自序」
自分の絶望の一時的棚上げ。
そして昔の自分のような寂寞に耐え、駆けてゆく戦士たちへの同情。

「狂人日記」
「恥辱」の発見。
食人行為に対する拒否・反撥と牽引・連帯の二側面が「羞恥」を形成する。
被害者であると同時に加害者でもあること。
「『吶喊』自序」の挫折からの再出発。

「孔乙己」
彼の性格の特徴は「迂腐」と「善良」である。
理解するには科挙制度への理解が不可欠。

24日の夜は先生を囲んで懇親会を行う。
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by pangxie | 2004-09-27 01:55

野球観戦

野球観戦のため、名古屋ドームへ行く。
中日対ヤクルト。
これまではほとんど家で観ていたのだが、やはり球場の雰囲気は家では感得することのできぬものだ。
太鼓やトランペット、応援団にあわせてリズムをとる観衆。
見知らぬ観衆たちが一体となって応援するのだ。

誘ってくださったSさんが「名古屋にいるとは思えない」と言っていたが、
まさに非日常的空間にいる心地がした。

宋祖英が、音楽の都ウィーンでコンサートをやったそうだ。
马桑树儿搭灯台
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by pangxie | 2004-09-22 00:52

報道の自由という暴力

『東奥日報』8月26日社説より引用。いい記事だと思うので。
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「ワイドショー良質化を願う」

 テレビは良くも悪くも、現代社会に強い影響を与える。特に、刺激的映像を伴った報道は、世論や子供に決定的影響を及ぼす場合が多い。その分、報道責任も重大であり、安易な報道姿勢は許されない。関係者には十分、認識してほしい。

 テレビ報道は生ニュースからニュース特番、ドキュメンタリー、エンターテインメント中心の企画ものまで、番組の間口は広く、切り口は多彩だ。その中で案外、重要性を見逃されがちなのがワイドショーとは言えまいか。

 振り返れば、ワイドショーの歴史は約四十年。立ち上げ当初の一九六〇年代前半、放映時間は朝に集中、昼や午後へ次第に進出し始めるのは六〇年代後半だ。今でこそ聞き慣れた新職種、芸能リポーターは七〇年代半ば初登場した。

 八〇年代半ばには、ロス疑惑を含む事件報道が過熱、九〇年代半ばには、ワイドショーとニュースのボーダーレス化、相互乗り入れが一気に進行、ニュース報道も重要なジャンルに浮上した。

 その後、幾多の変遷を経て、最近は政治家の積極的出演も目立つ。「テレビのワイドショー化」「ワイドショーの政治化」などの指摘に代表されるように、内容が徐々に変質しつつある。

 しかし、英国などテレビ報道先進国と比較した場合、多くの局が似たり寄ったりの内容、切り口になり、マンネリ化しているのが日本の特徴。金太郎あめを見ている感が否めない。実際、同一テーマや映像の繰り返し使用、うり二つの放送順-といった例が少なくない。

 司会者は単に間をもたせる存在にさえ見え、各局の独自性は極めて薄い。チャンネルごとに放映スタイル、内容の全く異なる英国とは天と地ほどの歴然とした差があるのだ。

 例えば、皇室や有名芸能人、スポーツ関係者、文化人などの入退院、刑事事件、政治家、高級官僚のスキャンダル…。全局が同じ対象の突撃取材競争に走る。視聴者の眉をひそめさせる各種行き過ぎや、いわゆる「メディアスクラム(集団的過熱取材)」現象を時に起こし、批判を浴びる。見苦しいことおびただしい。

 「もっと説得力ある報道を、どうしてもっと平静にできないのだろう。言論の自由の悪用ではないか」。こうした批判さえ一部には根強い。

 これとは別に、一種の露悪趣味とも言うべき悪質行動もあった。オウム報道に関連し、某キー局のワイドショーが坂本弁護士取材テープを教団側に見せていた件は記憶に生々しい。報道としてあるまじき行為だ。関係者はこうした過去の汚点を忘れてはならない。

 難解なニュースの内容を易しくお茶の間に届ける-。

 ワイドショーの本質は確かに、社会的重要性を十分帯び、番組制作に真剣に取り組む価値も十分あると言える。しかし、テレビ報道の重要な一翼を担う以上、社会規範と視聴者心理に即した大胆な改善が必要とは言えまいか。

 崇高な任務を正しく成し遂げるためには、映像の奇抜さ、リポーターやコメンテーターの知名度や攻撃的姿勢に依存するのではなく、関係者一同の深い取材力、人間洞察力で真実をもっと掘り下げ、現状の沈滞を打破し、質を深める必要がありそうだ。

 そうした一段と厳しい努力と視聴者意識重視が相まって、テレビ報道番組として、ワイドショーに立派な存在価値が初めて生まれてくるのではないか。

 通り一遍、表面をなぞったり、既報を繰り返したりするだけの報道では、残念ながら、本来の価値が半減すると言うほかない。視聴者のためにもワイドショーの良質化を願う。
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by pangxie | 2004-09-19 13:37

メモ

クリステヴァは子が自他癒着から自立するとき、息子の場合には母は自ら「天上の光」となり、その存在そのものを息子のなかから打ち消そうとする。そうして息子の場合は自我の確立を果たすという。しかし、娘の場合は、母子分離とともに<想像的な父>との決別も要求される。また、母と娘は一体化されたまま、娘の中なかにとどまろうとする。母娘の癒着状態が自我確立の際に解消されないのである。

だが、著者はこの癒着状態を癒着ではなく、「母の抵抗、母の報復、母の娘への願い」(167)として解釈する。ただ、象徴界(われわれの生きている社会)ではその思いは伝わることなく、たちまち娘にとって母は自我の理想を押しつける存在になってしまう。

娘は本当にこのまま母の<思い>を受け取ることは不可能なのだろうか。

娘は母との癒着そのものを否定しなくてはならない。存在を覆い隠すのだ。
息子の場合、近親姦禁止によって母以外の女を求めるのに対し、娘は母の愛を認めるわけにはいかない(同性愛の禁止)。
父への愛から父以外の男への愛へ。母を愛したことは忘却せねばならない。
しかし、母娘の関係は、依然として娘にとっては精神的紐帯を保ったままである。
(p176まで。続く)
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by pangxie | 2004-09-17 03:10

中国人にとってのコーラ

3年前の夏上海にいったときのことを暑い中で思い出した。
あまりに暑いので黄浦公園近くの売店でコーラを買った。
しかし、そのコーラはぬるくて口の中がドロドロするような感覚で
いつものコーラと違いこんなもの飲みたくないなあ、そもそも
夏なんだから冷やして売ってほしいものだとぶつぶつ言いながら、
その飲みかけのコーラのペットボトルを公園のゴミ箱に捨てた。

ゴミ箱を2、3歩離れるとすぐさま子どもが中のコーラのボトルを拾って持っていってしまった。
彼はきっと僕がコーラを捨てるのを見ていたに違いないことは明確で、
その子がペットボトルがほしかったのかそれとも中のコーラがほしかったのかはわからない。
ただそのときは僕は彼はコーラがほしかったのだろうと解釈した。
だから、コーラも飲めない子が上海にはいてその中にいながら自分はなんてもったいない行為をしたのか、それを見ていたあの子はどう思ったのだろうかなどと考えた。

最近観た映画「あの子を探して」の中にも350ミリリットルの缶コーラ2本を二十数人の子どもらで飲んでいる場面があった。
一本3元という価格は彼らにとってして安くはない。
みんなコーラを初めて飲むわけだが禁欲的でちゃんとみんなで均等に飲んでいる。

「為人之母」の中でもコーラが出てくる。
裕福な実母のところへ引きとられクレジットカードまでもが与えられた喜子(シーズ)が、
育ての母のもとを訪れる。
喜子は育ての母とその息子を喜ばせようとコーラを数本買ってくる。
だが育ての母は「うちでは食事中にこれを飲む習慣はないのよ」ととまどいを見せるのであるが、喜子はせっかくだからと無理やりに飲ませようとし母も「こんな高いもの」と言いながらもそれを受け入れる。
ここでもコーラが高級品の代名詞として描かれている。

先日スーパーで水出し麦茶を買った。
でかい袋に入った茶葉が300円弱。
これで何リットルの麦茶が作れるだろうか。
それに比べると、500ミリリットル100円のコーラやお茶が高く思えてくる。
ましてやコンビニや自販機で買えば1.5倍もするのだ。

便利な生活に慣れてしまい、日頃贅沢をしていることに気がつかないことがある。
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by pangxie | 2004-09-07 05:28

「誕生日」について

誕生日を祝う習慣はいつごろから発生したのだろうか、
それはわからないが、誕生日を祝うという行為にふと疑問を感じた。
誕生日はむしろ当事者が感謝すべき日なのではないかと思うからである。

誕生日を親や友人が祝うという行為そのものを否定するのではない。
祝うことは別に悪いことでなければ、決して恥じるべきものでもないのだ。

しかしそれだけでよいのだろうか。

祝ってもらうことばかりに重きが置かれすぎていて、
当事者が感謝するという側面が薄らいでいる或いは皆無なような気がしてならない。

今まで生きてきた自分を褒め称えるだけでなく生かせてもらった周囲に対する感謝の表明があってもいいのではないか。
つまり誕生日は祝ってもらうと同時に、感謝するという相互行為によって成り立つべきだと思う。
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by pangxie | 2004-09-06 04:30

社会人

大学を卒業して就職したら、「大学生」から「社会人」になったという。
ここでいう「社会人」という語の意味がわからない。
現実社会に参加している人を意味するのであれば、幼稚園児や小学生だって社会人ではないか。もちろん大学生も然りである。

就職して自分名義の健康保険証を持つようになった、言い換えれば経済的自立を果たしたという意味で、現実社会に参加するようになったということであれば、それは「会社員」や「公務員」などと称すべきだ。もしくは「会社人」とでも言えばよい。

経済的自立を果たした人間のみが「社会人」と称するに値する、
こう解釈してよいのだろうか。

彼らはそう自称することによって一人前の人間である(になった)ことを示したいのかもしれない。

陈美龄(アグネス・チャン)「归来的燕子
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by pangxie | 2004-09-03 02:19

いろいろ

「ビッグ大たこ焼き」という商品。
「大」は「たこ」を修飾し「ビッグ」は「たこ焼き」を修飾すると考えれば、
「ビッグ」と「大」が連接されていてもおかしくはない。
つまり「大」なのはたこなのであって「ビッグ」なのはたこ焼きの形状なのだ。

ナビスコの「オレオ」は四分の一食べれば見るのも嫌になる。
かなりくどい味だ。

今細木数子がブームだ。
前なんかの番組でいっていたがバラエティには「熟女枠」があるという。
かつてはサッチー、デビ夫人などが出まくっていて、
その後釜の位置を細木が占めている。
この一過性の現象にどのテレビ局もすぐに乗り気になってどの(落ち目の)芸能人もぶらさがろうとしてまったく浅ましい限りだと彼らの事情を些かも考えないで言ってしまうのにも
どうかという気持ちがあるがついこう思ってしまう。

僕は占いは信じないし聞きたくもない。
占いと天気予報ほど当たらないものはないとまで思っている。
占いの結果に自分の方から擦り寄っているだけではあるまいか。

「回娘家」で有名な歌手朱明瑛のベストアルバムを聞く。
全16曲のうち共通語で歌っているのは3曲のみで上海語が1曲、広東語が1曲、あとはすべてザイールとかフィリピンとかの民族歌謡を原語で歌っている。
中国語の歌を聴きたかった自分としては残念だった。

藤井省三『現代中国文化探検』(岩波新書)を読むと中国に行きたくなってしまう。
本書は中国比較都市文化論であるばかりでなく上質なガイドブックでもあるのだ。
北京、上海、台湾、香港のいずれかへ行くときは必ず本書を持っていこう。
刊行年が99年なのだが、衛慧やら棉棉などの作家についても言及している。
いずれも2、3年後に日本語訳が出された作家だ。
著者は上海の流行をタイムリーに捉えていた。
一方、近代史の部分は要点をわかりやすくまとめていて非常に読みやすい。
著者の関心の幅の広さがうかがえる。

もう9月。集中講義もあと2週間後。
いま関連書籍を読んでいるが、論文を書く上で絶対に手本としなければならない、そんな本だ。
ひとつひとつが明確な根拠を示していて、これが論文というものかと認識させられる。
いつか自分もこんな論文を書けるようになれば、と大それたことを空想したりする。

*ジェイ・チョウ(周杰倫)「上海一九四三
彼は中国語圏でものすごい人気を誇る歌手。
発音があまり明瞭ではないが、曲は好感が持てるものが多い。
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by pangxie | 2004-09-01 02:01